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1995.01.17 Tuesday
兵庫県南部地震 〜回想〜
今日は、大きな地震があった。
その時、私は大阪の阪神淡路大震災被災地域の隣の隣町に住んでいた。 その日は、受験勉強のため3時くらいまで勉強していたので、ぐっすり寝ていたけれども、弟の悲鳴で目が覚めた。 弟は2階と1階のあいだの階段で上から落ちてくる大きさ1.2mの絵画が落っこちてきたりして悲鳴をあげたのだという。 地震のあと、電気がつかなくなった。 でも、何故かガスがついた。ガスの明かりで懐中電灯を捜して、なんとか明かりをつけた。テレビもつかなく、ラジオもどこにあるかわからないなか、暗いなかとにかく待っていた。 父が外を見に行くと、近所の車がたくさん道路に飛び出していた。 たぶん、サイドブレーキをひき忘れていたからだろう。朝5時代だったから良かったけど、昼間だったら大変なところだった。 私は、震度5以上の揺れがあるとガスが止まると聞いていたので、ガスメーターを見に行った。 しかし、止まっている形跡はなかった。ガスメーターもいい加減なものである。 20分位してからだろうか、電気がついた。 周りの家からも歓声があがった。(普段から阪神戦でよい場面が起こると歓声が起こるのだが) その後テレビを見ていると、震源は淡路島というのに、最大震源地は京都で震度5だと言っていた。何故か、神戸から震度情報がなく、揺れなしといった報道だったと思う。 しかし、とんでもない勘違いで、淡路島が震源の地震で、神戸が揺れないはずはない。 日が明けてから、状況がわかってきた。高速道路が倒壊。鉄道は寸断といった。あの状況である。 7時頃、とりあえず、今日は学校がありますと連絡がかかってきた。 学校に行く途中も余震が続く中、なんとか学校に着いたが、皆動揺していた。 ・テレビが落ちてきて怪我をした。 ・ガラスが落ちてきて ・神戸の親戚と音信がとれない。死んだかもしれない。 などなど。 とにかく、パニクっていた。 そして、困ったことに一番パニクっていたのは実は教師だった。 授業をやるべきなのか、帰すべきなのか、給食はあるのか?ないのか?といったことが何1つ決まらず、外で遊んでいるか、教室で震災特番を見ているだけかということであった。 そして、授業はなく、給食だけ食べて帰ることになった。 その給食が大変だった。 なんと、パンが届かないので、パンはなし、牛乳とおかずのみ、しかもその時にある材料で作ったあり合わせのメニューというすごいことになってしまった。 実は、その時食糧不足が忍び寄ってきた。 トイレットペーパーパニックではないが、店から食料が消えた。 売るものがなく、早々とスーパーは閉店。 うちに帰っても、たよりになるのは冷蔵庫の中だけ。できるだけ節約して飯を食うしかなかった。 翌日以降少しずついろいろなものが戻ってきて、平常の生活に戻ったのは、1週間後くらいだったろうか…。 PS そのあと、受験勉強そっちのけで震災特番を見ていたら、志望校に落ちたとさ。 ダメぽ |
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